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トラ トラ トラ(10)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)
浬(シー・マイル)1.852km 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km

横須賀〜サイパン 1280浬 横須賀〜トラック 1840浬
トラック〜ラバウル 800浬 トラック〜クェゼリン 1100浬
クェゼリン〜ハワイ 2000浬 
ラバウル〜ガダルカナル 560浬
*ラバウル
 ソロモン群島の北西に位置するニューブリテン島の要港。緒戦に占領、陸海軍の航空隊が進出していた。
*ガダルカナル ソロモン群島中、最大の島。
*ツラギ フロリダ諸島の東側に位置し、ガダルカナルと相対している。ガブツ、タナコンボゴ、フロリダと共に緒戦(1942.5.3)、日本軍が上陸、水上機基地を造るが…。
1945-c ガダルカナルの死闘

tora tora tora(no.10) 第二次ソロモン海戦(1)

陸海軍のガダルカナル奪回作戦

昭和17年(1942)8月16日、日本軍の本格的な反攻が始まった。

一木支隊(一木清直大佐)2400名が先陣をきり、内900名が低速の輸送船から駆逐艦に移乗して、ガダルカナルへ急行した。8月18日上陸を果たすが、揚陸出来た火器は砲2門と重機8挺のみであった。

ジャングル内の進撃は困難を極めたが、それでも8月20日の夜には攻撃地点につき、ただちに突撃を敢行した。一木大佐は盧溝橋事件で勇名を馳せた軍人であるが、一個師団を超える米軍に殆ど何の準備もなく、ただ、がむしゃらに突進、壊滅したことは、きわめて無謀と言わねばならない。なお、この戦闘で一木大佐は戦死したと思われるがその詳細は不明である。後方要員100名を除き800名が戦死。8月19日、一木支隊の増援部隊(1500名)がトラックを出発。第二艦隊の軽巡他が護衛についた。後、この船団は第二次ソロモン海戦の引き金となる。

20日の朝、日本軍の偵察機がガダルカナル南東の海域で空母3隻を含む敵の大部隊を発見した。このため、南雲の機動部隊(第三艦隊)はトラック寄港を取りやめ急遽南下した。また、第二艦隊(近藤信竹中将)もトラックを慌しく出航していった。いま、まさに戦機が熟そうとしていた。

 


 


*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)*トラ トラ トラ(no.11)


浬(シー・マイル)1.852km わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km
横須賀〜サイパン 1280浬 横須賀〜トラック 1840浬
トラック〜ラバウル 800浬 トラック〜クェゼリン 1100浬
クェゼリン〜ハワイ 2000浬 ラバウル〜ガダルカナル 560浬
*ラバウル
 ソロモン群島の北西に位置するニューブリテン島の要港。緒戦に占領、陸海軍の航空隊が進出していた。
*ガダルカナル ソロモン群島中、最大の島。
*ツラギ フロリダ諸島の東側に位置し、ガダルカナルと相対している。ガブツ、タナコンボゴ、フロリダと共に緒戦(1942.5.3)、日本軍が上陸、水上機基地を造るが…。
1945-c
tora tora tora(NO.11) 第二次ソロモン海戦(2)
米海軍第61任務部隊
日本軍の偵察機が発見した大部隊の全容を明らかにする時期がきたように思う。F・J・フレッチャー中将に統率される第61任務部隊は、C・H・ライト T・C・キンケイド F・C・シャーマン N・スコット各少将の任務群に分かれ、その戦力は空母3、戦艦1、巡洋艦(重、軽)7、駆逐艦16、計27隻の堂々たる大艦隊であった。空母3隻(エンタープライズサラトガワスプ)の搭載機は150機に及び、ガダルカナル(ヘンダーソン基地)の陸上機100機を加えると南雲中将の第三艦隊を優に凌駕していた。それでも、フレッチャーはキンケイドをわざわざ呼び寄せ彼の意見を具申させた。4人の少将の中で彼がいちばん頭抜けていたからである。

対する日本軍の陣容を点検してみる。第二、第三艦隊を合わせると46隻になり米側を上回るが、第二艦隊は陸兵の輸送に従事しており当座の戦力にはなり得ない。また、ラバウル基地の陸上機も距離的な問題(1,000キロ)で使い物にならない。結局、すべての重みが南雲中将の肩にのしかかってきた。空母3隻(翔鶴瑞鶴龍驤)、戦艦2、巡洋艦(重、軽)5、駆逐艦10、計20隻である。(第二)近藤信竹中将、田中頼三少将、(第三)南雲忠一中将、阿部弘毅少将、原忠一少将の5名が日本側の部将である。

8月23日早朝、米軍のカタリナ飛行艇がガダルカナルへ急行している増援部隊を発見、ただちにサラトガから攻撃機が発進したが悪天候のため引き返す。おなじころ、ワスプは燃料補給のため南下(サンゴ海へ)。

本格的な戦いは8月24日朝始まる。双方の偵察機が飛び交い、午後、ガダルカナルへ分派された空母、龍驤がサラトガからの攻撃機に捉まり、爆撃と雷撃で沈没。、やがて、日本軍の反撃が始まる。空母、翔鶴の攻撃隊はエンタープライズに爆弾3発を命中させるが撃沈までには至らなかった。米側の対空砲火は激烈なものでわが軍は艦爆を7割、ゼロ戦の6割を失った。ミッドウェー、サンゴ海で熟練パイロットを消耗したツケが今頃回ってきたようである。その証左として、雷撃、爆撃の技量もさることながら、そのあと瑞鶴から発進した攻撃隊は航法不良でエンタープライズを発見することが出来なかった。加えて、帰還途中、落伍する者が多く海上に不時着した。

翌日(8月25日)、ガダルカナルにあと一歩という所で、増援部隊の駆逐艦睦月と兵員を満載した輸送船が1隻、ヘンダーソン基地の陸上機の攻撃により撃沈される。残存部隊は、ほうほうの態でラバウルへ逃げ帰った。艦艇、航空機の損害はもとより、戦略面に於いてもこの海戦はわが軍の完敗であった。せめてもの慰めとして、その直後の日本潜水艦の活躍をお知らせしよう。8月31日、サンゴ海を哨戒中のサラトガを伊26が雷撃、3ヶ月の重症を負わせる。9月15日、伊19がワスプを雷撃、損傷が酷く自沈のやむなきに至る。この時期、米側の稼動空母はホーネット1隻だけとなりハワイの艦隊司令部は頭を抱えた。しかし、その後のガダルカナル攻防戦においても陸上機だけで戦い抜き、日本軍を寄せ付けなかった。


 

 

トラ トラ トラ(12)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)
浬(シー・マイル)1.852km 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km

横須賀〜サイパン 1280浬 横須賀〜トラック 1840浬
トラック〜ラバウル 800浬 トラック〜クェゼリン 1100浬
クェゼリン〜ハワイ 2000浬 
ラバウル〜ガダルカナル 560浬
*ラバウル
 ソロモン群島の北西に位置するニューブリテン島の要港。緒戦に占領、陸海軍の航空隊が進出していた。
*ガダルカナル ソロモン群島中、最大の島。
*ツラギ フロリダ諸島の東側に位置し、ガダルカナルと相対している。ガブツ、タナコンボゴ、フロリダと共に緒戦(1942.5.3)、日本軍が上陸、水上機基地を造るが…。
1945-c ガダルカナルの死闘

tora tora tora(no.12) サボ島沖海戦(1942.10.11~12)  ヘンダーソン基地艦砲射撃(1942.10.13~14) 

陸海軍のガダルカナル奪回作戦

一木支隊壊滅のあと、川口支隊(川口清健少将4000名)が編成され一木支隊の残存部隊と共にガダルカナルへ上陸したのが、9月の初旬。米軍の反撃は凄まじく約三分の一が海中に消えた。それでも重火器数十門の揚陸に成功したが、搬送は困難を極め9月12日の攻撃日に参加できた砲はわずかであった。各隊の前進もはかどらず14日まで散発的な攻撃に止まった。死傷700名、残りの兵たちは奥深いジャングルの中を棄民となってさまよい、やがて、白骨の山を築く。

大本営では米軍の兵力を5、000名と考えていたが、18、000名の兵たちが陣地を固め、航空機も優に100機を超えヘンダーソン基地は難攻不落の要塞と化していた。

この頃になって、始めて事の重大さに気付いた大本営では大兵力の投入に踏み切る。20、000名の兵員、200門の砲、戦車一個連隊(75両)を擁した第二師団(丸山正男中将)がジャワ島から転用された。三度目の正直である、その成功を祈ろう。

連合艦隊ではこの作戦に呼応して、ヘンダーソン基地への艦砲射撃を実施することにした。また、陸上からの砲撃を強化するための重火器揚陸作戦も合わせて実施された。10月11日、第六戦隊(五藤存知少将)の重巡部隊がサボ島沖に到着した。重巡、青葉(旗艦)、古鷹、衣笠、駆逐艦、吹雪他1隻。当然、米軍の哨戒部隊と遭遇する。重巡4、駆逐艦5(ノーマン・スコット少将)、最初に発見したのは米側である。探照灯に捉えられた青葉の艦橋に一弾が命中、五藤少将は緒戦で戦死した。深夜の砲撃戦は米側が制した。古鷹、吹雪が沈没、青葉大破、かろうじて衣笠の善戦により駆逐艦(ダンカン)一隻を撃沈するが、米側の完勝でこの夜戦は幕を閉じた。これまでの夜戦は日本側が殆ど制してきた経緯の中で考えると、この頃から米軍のレーダーが実用化され始めたのではないだろうか。

10月13日、栗田健男中将に率いられた戦艦(金剛、榛名)が艦砲射撃を実施、これは大成功でへンダーソン基地を火の海にした。護衛駆逐艦10隻、空母艦載機、ラバウル基地からのゼロ戦に護られて攻撃部隊の被害は皆無、無事帰還を果たした。これも前夜の第六戦隊の奮戦により米艦隊が補給、給油に追われて対応出来なかったためであり、五藤少将の戦死は決して無駄死にではなかったのである。10月15日第二師団の上陸が開始された。

 


 

トラ トラ トラ(13)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)


浬(シー・マイル)1.852km 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km

横須賀〜サイパン 1280浬 横須賀〜トラック 1840浬
トラック〜ラバウル 800浬 トラック〜クェゼリン 1100浬
クェゼリン〜ハワイ 2000浬 
ラバウル〜ガダルカナル 560浬


 

*ラバウル ソロモン群島の北西に位置するニューブリテン島の要港。緒戦に占領、陸海軍の航空隊が進出していた。
*ガダルカナル ソロモン群島中、最大の島。
*ツラギ フロリダ諸島の東側に位置し、ガダルカナルと相対している。ガブツ、タナコンボゴ、フロリダと共に緒戦(1942.5.3)、日本軍が上陸、水上機基地を造るが…。
1945-c ガダルカナルの死闘

tora tora tora(no.13) 南太平洋海戦(1942.10.26)
陸海軍のガダルカナル奪回作戦

第二師団の上陸は平易なものではなかった。へンダーソン基地は使い物にならなかったが、米側では第二の戦闘機用の飛行場を用意していたのである。航空機の半分はまだ使用可能であり、無傷のパイロットたちの戦意は旺盛であった。彼らは第二師団の輸送船の大半を沈めてしまった。ラバウルからの日本軍機は1、000キロを超える道のりがあり、ガダルカナル上空では15分しか滞空できなかった。しかも、搭乗員の大方は練成不足で往復の航法さえ危ういものであった。結局、四分の三の兵員と若干の重火器、戦車10両ほどがようやくたどり着いた。第二師団と先の川口支隊の残存部隊、合わせて約15、000名の将兵は、またもや濃密な樹林に前途を阻まれた。海岸線を進んだ部隊は絶え間のない空襲に晒され、その補給もままならなかった。

飲料水不足、熱病、脚気、毒虫などが兵たちの気力を失わせた。密林内での重火器の搬送は将校たちの叱咤だけでで解決できる問題ではなかった。人力の限界に最初に挑戦したのが、このガダルカナル戦ではあるまいか。のちに、インパール作戦でも同様の試練に日本陸軍は直面することになるが、何故なのか?10月24日〜25日、前者とまったく同じ轍を踏み、てんでバラバラの態勢で突撃に移った。支援の砲撃もなく、空爆もなく銃剣だけを頼りに敵陣へ突っ込んだ。堅固な米軍の縦深陣地はビクともせず、ただ、いたずらに日本軍兵士の屍を重ねるだけであった。正式には、第17軍第二師団歩兵第29連隊の将兵2、500名の内500名が名誉の戦死を遂げた。他の連隊もほぼ同様の結末を迎えたに違いない。損耗率20%、残りの80%には筆舌に尽くし難い飢餓地獄が待ち受けている。                                                                        閑話休題。わが国の戦史上、三つの忌まわしい戦いが数えられる。ノモンハン、ガダルカナル、インパールである。いずれも、投入された将兵は理不尽な戦いを強いられ悲惨な戦死を遂げた。後の研究によれば、上級司令部の無能を通り越した杜撰なまでの指揮系統が暴露され、研究者の顰蹙を買っている。司令官の解任、中、大隊長の自殺、ありとあらゆる不祥事が盛り込まれ、兵隊たちは、原野に屍を晒した。

このガダルカナル作戦の途中、大本営から辻正信中佐が乗り込んできた。無論、督戦のためである。どのような経緯があったのか一切不明であるが、戦いの最中に川口少将は解任され、このことは二人とも生き残ったため戦後にまで禍根は尾を引く。

陸上の攻撃は日本軍の完敗で終息したが、南太平洋では両陣営の艦隊がにらみ合いを続けていた。双方ともガダルカナル決戦支援のために出張って来ていたのである。山本は後方のトラックにいたが、彼の虎の子全部を投入する熱の入れようであった。米軍呼称、サンタ・クルーズ諸島海戦(南太平洋海戦)は、10月26日早朝に火蓋が切られた。

第二艦隊(近藤信竹中将)

第3戦隊 戦艦 金剛 榛名 第4戦隊 重巡 愛宕 高雄 第5戦隊 重巡 妙高 摩耶第二航空戦隊(角田覚治少将) 空母 隼鷹(48機) 第2水雷戦隊 軽巡 五十鈴 第15駆逐隊 駆逐艦 黒潮 親潮 早潮 第24駆逐隊 海風 涼風 江風 第31駆逐隊 長波 巻波 高波

第三艦隊(南雲忠一中将)

第一航空戦隊 空母 翔鶴 瑞鶴 瑞鳳 第4駆逐隊 嵐 舞風 第16駆逐隊 初風 雪風 天津風 時津風 浜風 照月 熊野(重巡) 第7戦隊 重巡 鈴谷 第11戦隊(阿部弘毅少将) 戦艦 比叡 霧島 第8戦隊 重巡 利根 筑摩 第10戦隊 軽巡 長良 第10駆逐隊 秋雲 風雲 巻雲 夕雲 第17駆逐隊 浦風 磯風 谷風

 

南太平洋艦隊(ウイリアム・F・ハルゼー中将) 在ヌーメア(ニューカレドニア)

第16任務部隊(トマス・C・キンケード少将) 空母 エンタープライズ(82機) 戦艦 サウスダコタ 第4巡洋艦戦隊 重巡 ポートランド 軽巡 サン・ファン 第5駆逐戦隊 マハン カッシング ポーター スミス プレストン モーレー ショー カニンガム 

第17任務部隊(ジョージ・D・マレイ少将) 空母 ホーネット(87機) 第5巡洋艦戦隊 重巡 ノーザンプトン ペンサコラ 軽巡 サン・ディェゴ ジュノー 第2駆逐戦隊 モーリス アンダーソン ヒューズ オースチン ラッセル バートン

第64任務部隊(ウイリス・A・リー少将) 戦艦 ワシントン 重巡 サンフランシスコ 軽巡 ヘレナ アトランタ 駆逐艦6隻

ガダルカナル・ヘンダーソン基地 60機

損害

日本

筑摩(重)大破 翔鶴(空)瑞鳳(空)中破 秋雲(駆)照月(駆)小破 航空機 92機

アメリカ

ホーネット(空) 沈没 ポーター(駆) スミス(駆) 大破 エンタープライズ(空) 中破 サウスダコタ(戦) サン・ジュアン(巡) 小破 航空機 74機

以上

戦闘は始終日本側が主導権を握り有利に進んだかに見えたが、終わってみればほゞ互角の戦績で、航空機を多く失った日本側不利の判定が妥当であろう。南雲中将は翔鶴が被弾した時点で、瑞鶴以下の指揮権を角田少将に譲り、自らは後方へ避退した。見敵必戦の猛将角田少将の戦いぶりは凄まじく、ホーネット撃沈の功は彼に帰すべきであろう。

最後に一言。艦船の名前を長々と連ねたのには訳があります。帝国海軍の場合、駆逐艦名の下に潮、風、雲、波の文字が多く使われています。そして、この時点ではまだ戦隊ごとにきちんと纏まりが見られます。例えば、17戦隊では浦風、磯風、谷風と言う様に。10戦隊は雲で纏まっています。1943年(昭和18年)に入りますと、ガダルカナル戦には多くの駆逐艦が投入され、その被害は甚大なものとなります。高速性が買われて兵員輸送、補給のために使われたのです。米軍は相変わらずの名付け上手で”東京急行”と呼んでいました。ガダルカナル戦が終わってみると、各戦隊の駆逐艦はくしの歯がかけたような損耗の激しさに見舞われます。

 


 

トラ トラ トラ(14)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)
浬(シー・マイル)1.852km 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km

横須賀〜サイパン 1280浬 2370km 横須賀〜トラック 1840浬 3400km
トラック〜ラバウル 800浬 1480km 横須賀〜ガダルカナル 3200浬 6000km
ラバウル〜ガダルカナル 560浬 1000km

*ラバウル ソロモン群島の北西に位置するニューブリテン島の要港。緒戦に占領、陸海軍の航空隊が進出していた。
*ガダルカナル ソロモン群島中、最大の島。
*ツラギ フロリダ諸島の東側に位置し、ガダルカナルと相対している。ガブツ、タナコンボゴ、フロリダと共に緒戦(1942.5.3)、日本軍が上陸、水上機基地を造るが…。
1945-c ガダルカナルの死闘

tora tora tora(no.14) 第三次ソロモン海戦(1942.11.12~15) 

陸海軍のガダルカナル奪回作戦

 

第2師団壊滅の後を受けて、11月初旬、第38師団の投入が決定した。11隻の輸送船に分乗、出発した。ガ島海域に近ずくと、米軍機の猛烈な空襲が始まった。6隻が沈没、1隻は反転離脱、残りの4隻は岸に乗り上げたが、その場で炎上。命からがら上陸した将兵は2,000名近くいたが、食料、武器、弾薬を失ったので為すすべもなくジャングルの中にさまよい込んだ。一木、川口、第2師団の残存部隊に加えて彼らもまた棄民となったのである。

この上陸作戦の支援のため、今回もヘンダーソン基地への艦砲射撃が計画されたが、戦艦、比叡、霧島、重巡、鈴谷、摩耶が近ずくと、米艦隊に迎撃されたちまち大混戦となった。後に、第3次ソロモン海戦と名付けられた。米重巡2隻と引き換えに戦艦2隻を失った。この乱戦中、鈴谷と摩耶が飛行場に2,000発の艦砲射撃を行ったが、なにせ20センチ砲弾ではその威力はなく大した損害は与えられなかった。

12月に入ると、わが大本営は又もや懲りずに第51師団の派遣を決定するが、師団を現地まで運ぶ輸送船の調達に手間取り、また、連合艦隊に護衛艦の派出を断られたので、流石の大本営も諦めざるを得なかった。現実問題として、20,000名の残存部隊に対して、ねずみ輸送と称する潜水艦による食料輸送もままならない現今、さらに一個師団の投入は気違い沙汰と言わねばならず、流石の山本長官も開いた口が塞がらなかった。戦艦2隻、空母、龍驤、重巡、加古、古鷹、衣笠、軽巡、由良、駆逐艦は15隻以上を喪失。操縦士は、ラバウルから1,000キロの道のりを飛び無理な戦いを強いられた。150名以上の戦死者を出している筈である。ハワイ、ミッドウェーから約1年間で300名を超えるベテラン・パイロットを失ったのだ。取り返しのつかぬことをした。山本は、肩を落とし嘆息した。

昭和17年12月31日(1942)。大晦日である。宮中で御前会議が始まった。ガダルカナル撤退が決まり”ケ号作戦”と呼称される。アメリカの武士の情けかどうか判らないが、2月1日から2月7日までかけて行われた撤退作戦は大した損害(駆逐艦一隻)も出さずに無事終了した。約、1万名の将兵が救出されたが、動けない傷病兵は哀れであった。手榴弾自決を強いられた者、機銃の掃射を受けた者、僅かの食料と共に置き去りにされた者さまざまであった。大本営は、相変わらず、撤退とは言わず転進という言葉を使った。余談になるが、ガ島からの帰還者は一時隔離され、完全な緘口令が布かれ、そのまま中国大陸やビルマ方面に送られた。だから、運の悪い者はインパール作戦に狩り出された者もいる。

約半年間の両軍の損害は次の通りである。

百武晴吉中将(17軍司令官)

戦死 5,000名 戦病死、餓死 15,000名 救出 10,000名

A・ヴァンデグリフト少将

戦死 1,600名 戦傷 4,700名

ガダルカナル作戦の敗因をあげるとすれば、およそ次のものが挙げられよう。

わが国は長大な戦線(北はアリューシャンから南はラングーンまで)を維持しなければならず、この戦線に於いても、東部ニューギニアとの二正面作戦を余儀なくされており兵員の補充、武器弾薬の輸送だけ取り上げても米軍の制空権下では大変な困難をともなった。

わが軍の航空支援は1,000キロも離れたラバウルからしか得られず、往復6時間以上の飛行を強いられ、敵との交戦時間は燃料の関係で15分くらいしか割けなかった。ブーゲンビル島のブイン(500キロ)に中継飛行場を建設中であったが、結局間に合わなかった。

兵力の逐次投入が言われているが、これには輸送能力と護衛能力の限界が大きく作用いていたに違いない。中国大陸、南方の各地からだと3,000〜4,000キロの移動となる。わが国の国力ではあの戦い方しかできなかったのでは?

一木大佐他の指揮官たちは、無論兵たちもそうであるが、中国戦線の経験しか持っていなかった。特異なジャングル戦では特別な装備も必要だし、何よりも先に薬品、つまり、熱帯病、赤痢、疫痢の予防が先決問題であった。慢性的な食料不足は栄養失調を招き体力の消耗を促した。

米軍の空襲(ヘンダーソン基地)により上陸軍は重火器と弾薬の揚陸が不可能となった。また、数少ない火器の搬送は密林のため困難を極めた。

密林戦の経験は彼らとてなかったが、また、物資の不足は米軍とて同様であったが、少なくとも彼らは、DDTとブルドーザーを持っていた。

 

ビスマルク海海戦(ダンピール海峡の悲劇)

ガダルカナル戦の後、日本軍は500キロほど後退して、コロンバンガラ島、ベララベラ島、ショートランド島に陣を布いた。1月2日から22日にかけて、ニューギニア東部の日本軍陣地、ブナ、ギルワ、サナナンダが米・豪連合軍の急襲を受け壊滅したから、その西側にあるラエの防衛が急務となった。ラエはニューギニアにおける日本軍の最後の砦であった。

この頃から、米軍の動きには眼を瞠るものがあった。島々の補給に駆け回るわが方の駆逐艦も以前と違って安全でなくなっていた。現に、A.S.メリル少将の第68任務部隊(軽巡3隻、駆逐艦、3隻)に数隻の駆逐艦が沈められており、制空権のみならず制海権まで米側に握られたようである。考えてみれば簡単な理屈で、開戦から一年ほど経過した今、ようやくアメリカの巨大軍需産業が大車輪で造り貯めた軍艦、空母、戦車、大砲がこのソロモン海域に姿を現したのである。

2月28日、かなり大規模な船団がラバウル港を出航して行った。ラエ増強の第81号作戦の発動である。8隻の大型輸送船には、第51師団(中野英光中将)の将兵が乗り込んでいた。先に、ガダルカナル戦に予定されていたのが転用されたのである。護衛の駆逐艦8隻を率いるのは、木村昌福少将である。彼は護衛戦のスペシャリストで、後にキスカ撤退作戦にも起用される。余談になるが、この時期の駆逐艦の艦長は一種の消耗品で、特にガダルカナル戦においてはその損耗が激しかった。半年前までの駆逐艦の戦隊には、末尾に雪、風、雲、潮などがつく艦名が少なくとも3隻セットで含まれていたが、今はバラバラの編成になっている。8隻の中にあの幸運の艦、雪風が含まれていることは興味深い。この雪風は終戦まで生き残ったただ一隻の駆逐艦として名高い。

3月1日、米軍の哨戒機が日本軍の船団を発見した。直ちに、無電が発信され米豪軍は色めきたった。ありとあらゆる航空機がかき集められて、発進の準備に大わらわだ。豪軍の格納庫の片隅から第一次大戦で使ったのではないかと疑われるほこりをかぶった複葉機も駆り出された。翼は布製である。しかし、この日は天候が悪化して索敵機は船団を見失った。翌日、天候の回復と共に敵は襲ってきた。2日から3日にかけて熾烈な空襲が続いた。

Aー20攻撃機、Pー38戦闘機、B−17爆撃機、B−25爆撃機、ブリストル・ボーフォート、ブリストル・ボーファイターなどが、10機から15機の編隊を組んで襲ってきた。朝から夕方までおよそ延べ150機が繰り返し反跳爆撃(skip bombing)を行った。この方法は、水平爆撃よりも命中率が格段と高かった。低空で進入するので対空砲火を受けやすいが、相手が火力の弱い輸送船と駆逐艦なのでより効果的であった。後に、ダンピールの悲劇とよばれるが、それは悲劇ではなく一大殺戮ページェントであった。長時間にわたる空襲なのでわが方の護衛戦闘機は常時、上空に張り付いている訳にはいかず、またその数も限られたものであったから有効に機能しなかった。加えて、P−38の性能はゼロ戦を上回っており空中戦でも押され気味であった。

最初の爆撃で沈没した旭盛丸の兵員は雪風、と朝雲が救助してラエに運んだ。2隻の駆逐艦はすぐさま取って返し護衛の戦列に復帰した。結局、輸送船は8隻全部が沈められた。駆逐艦は次に列挙する4艦が撃沈された。白雪、朝潮、荒潮、時津風。将兵は、3,000名が犠牲となり、2,500トンの物資を失った。この日から後、ニューギニア戦線では陸軍による大きな作戦は行われなかった。4月の初めに、海軍がイ号作戦を行うが戦局を左右するまでには至らなかった。後日談になるが、雪風と朝雲が救助した連隊規模の将兵はラエ周辺で戦ったのちジャングルに逃げ込みその後の消息は誰も知らない。ちなみに、ニューギニア戦線(18軍、安達二十三中将)には、20万の将兵が動員され無事終戦を迎えた者は2万人であった。

 


 

tora tora tora(no.15)

い号作戦

昭和18年4月3日、連合艦隊司令長官 山本五十六大将は、ラバウルに向かうためトラック基地を後にした。彼に従うもの、第11航空艦隊、第3艦隊に所属する航空機400機と艦船100隻、そして、2000名の将兵であった。イ号作戦の発動である。

ミッドウェーの惨敗の後、約6ヶ月ガダルカナル戦を余儀なくされ、連合艦隊の再建は遅々として進まなかった。まず、飛行機の生産不足、パイロットの練成不足、輸送船、護衛艦不足から燃料不足をも招き、長大なるわが防衛線を維持するにはいまの連合艦隊はあまりにも非力であった。だからこのイ号作戦に動員された戦力は連合艦隊にとってはなけなしの、あとの無い、予備戦力もない乾坤一擲の戦いになる筈であった。

山本をここまで追い詰めたのは、一月ほど前に起きたダンピールの悲劇(先述)と呼称される51師団の悲運であった。輸送船8隻、駆逐艦4隻、将兵3000名が犠牲となった戦いであるが、それはもう戦いと言うより虐殺、嬲り殺しと言った方が適切な一方的な航空機による殺戮であった。これは言い換えれば、わが日本軍の戦力が連合軍に比べ如何に懸絶したものになっているかを如実に示していた。開戦から一年ほどで、米軍の足音が早くも背後に迫って来ていることに気付き山本は愕然とした。

イ号作戦は、勿論、連合軍に対する反撃という意味合いを十分もっていたが、合わせて、政治的な意味合い、つまり、先般の殺戮に対するせめてもの一矢と解釈した方が自然であろう。山本ほどの将星が連合艦隊の弱体化、いや、大日本帝国の弱体化に気付かぬ筈はない。山本が、ラバウルに着任したことで、南東方面艦隊司令部の庁舎には翩翻として大将旗が翻った。同時期、陸軍の今村均中将(第8方面軍司令官)がおり、南東方面艦隊の草鹿任一中将を合わせると三本の将旗がラバウルの空を彩ったことになる。当時在島の陸海軍十万の将兵の士気は否応も無く揚がった。

戦闘序列

海軍 連合艦隊司令部 山本五十六大将 南東方面軍 草鹿任一中将 第3艦隊 小沢治三郎中将

陸軍 第8方面軍 今村均中将 第17軍 百武晴吉中将 第6師団 神田正種中将 第18軍 安達二十三中将 第20師団 青木重誠中将 第41師団 阿部平輔中将 第51師団 中野英光中将

 

4月7日 ゼロ戦157機 九九式艦爆66機 ガダルカナル

4月11日 ゼロ戦71機 九九式艦爆21機 オロ湾 ハーベー湾

4月12日 ゼロ戦131機 一式陸攻44機 ポートモレスビー

4月14日 y1 ゼロ戦52機 一式陸攻37機 ラビ

4月14日 y2 ゼロ戦75機 九九式艦爆23機 ミルン湾

4月16日、イ号作戦は一応終了したが、損害(喪失機200機、5割)に見合うだけの戦果は上げ得なかった。

第3艦隊の小沢治三郎中将は、肩を落として帰って行った。山本は慰める言葉も無く見送ると、かねてからの懸案事項であるブイン基地視察の計画に取り掛かった。


 

tora tora tora(no.16)

海軍甲事件

デング熱で入院していた宇垣参謀長が職務に復帰したのが4月14日である。イ号作戦最後の攻撃隊はミルン湾(ニューギニア)に向かっていた。ブイン基地を含むショートランド方面の前線視察はもともと宇垣が計画していたもので、山本がそれに乗る形で実行に移されたのである。計画の内容を知らせる参謀たちの暗号無電が前線基地に発信された。ミッドウェー戦でも暗号漏れが取り沙汰されたが、その調査はうやむやの内に終わり何の教訓も残さなかった。この度の無電も無造作に発信され、アメリカ軍はそれを機械的に傍受し、暗号解読班が正確に読み解いた。余談になるが、米軍の暗号は、機械的な変換に加え、更にアメリカ人の間でも難解なインデアンのナバホ語を織り交ぜていたという。わが方も、東北弁か鹿児島弁を使うべきであった。

4月18日 午前6時、2機の一式陸上攻撃機が6機のゼロ戦に護られて、ラバウルの東飛行場を飛び立った。一番機には、山本大将、高田軍医少将、副官の福崎中佐以下11名、2番機には宇垣参謀長、室井航空参謀以下10名が乗っていた。直掩戦闘機隊の指揮官は森崎武中尉であった。

7時30分、ブーゲンビル島の上空には、16機の米軍機(P38)が待ち構えていた。P38(ミッチェル少佐以下) の戦闘隊形は敵ながら見事なものであった。4機が一式陸攻を狙い、残りの12機は護衛のゼロ戦6機に張り付いた。このP38は、火器、運動性能、航続距離ともゼロ戦を凌駕していた。まず、山本機が火を噴きながらジャングルの中へ消えて行った。後、捜索隊により全員の死亡が確認される。続いて、2番機も被弾炎上、この機は海上に突っ込んだ。宇垣以下3名が奇跡的に救助される。米側の損害は一機のみであった。ゼロ戦は全滅と言うことになっているが、何機かは生還したらしい形跡がある。しかし、この事件は完全に秘匿され、緘口令がしかれたので、全ては闇の中に葬られた。ラバウルでは、パイロットの命は10日と言われていた位だから例え彼らがあのとき生き延びたにせよ、何れ大空へ散華したに違いない。山本の戦死が公式に発表されたのは、5月21日、国葬は6月5日に執り行われた。

 


 


2008年10月1日 08:37:33
 
 


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