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 太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)
”トラ トラ トラ”(no.1)
まえがき
わが国は、昭和16年(1941)12月8日、未曾有の体験に突入した訳であるが、今はその政治的原因については問わないことにする。 たゞ、その作戦に於いて重要と思われるもの、或いは戦争の転機となり得るもの、必須でないもの、等々について論述したいと思います。
また、その経過の中で戦死、あるいは負傷された軍人、軍属の方たちに対して不適切な表現或いは解釈がなされた場合は、幾重にもお詫び申し上げます。もちろん、生還された方に対しても同様の気持ちでいっぱいです。
そもそも、作戦と言うものは大局的には勝利を目指すものであり、その過程に於いて人的被害を如何に抑えるかもその眼目のひとつになっています。しかし、軍事作戦に於いては”犠牲”はつきものであり、非情にも軍事学では損耗率つまり”数字”(%)で人的損害をも表します。いずれにしても、戦争は自国民の平和と安全、幸福と発展のために戦われるものであり、あわせて世界平和を願うものに他なりません。瞑目。

 


 

ハワイ真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)1941 開戦                          *浬(シー・マイル)1.852km
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km
真珠湾攻撃についての論評は一切、差し控える。わが国選りすぐりの叡智が行ったこの作戦を基礎として、このドキュメントは出発したいと思う。港湾施設、飛行場、石油タンクを充分、破壊しなかったとか、帰途、ミッドウエーの攻撃を躊躇ったとか、空母を撃ちもらしたとか,攻撃部隊の指揮官に人選ミスがあったとかいろいろ批判はあるが、これも問わないことにする。国内では、大本営が緒戦の大勝利を、NHKを通じて国民に発表した。
しかし、それ以後の作戦についてはいくつかの疑問が残る。
先ず、哨戒線について。
戦いを仕掛ければ反撃を受けるのは当然のことである。その予防となるのが哨戒である。わが国は島国であるから、極論すれば360度の哨戒網が必要になってくる。当時の戦域は、中国大陸、北東アジア、東南アジア、中部、南西太平洋にまで拡がっていたからその哨戒域は気の遠くなるような広さである。だが、当面の敵、米国の正面は中部太平洋水域に限られてくる。わが国のハワイ攻撃は千島列島から行われたので、その例に倣えばアリューシャン方面も警戒が欠かせない。このため、5月、アッツ、キスカ作戦を実施したほどである。
第5艦隊が哨戒任務についた。
小さな漁船を改造した哨戒艇が10数隻、大湊港を基地として500浬付近を哨戒した。そのほかは、木更津の航空隊(第26戦隊)から哨戒機が数機でたのみである。
誠に、お寒い哨戒網と言わねばならない。少なくとも、これに加えて20隻の駆逐艦、20隻の潜水艦が必要であろう。また、航空機について言えば、小笠原、南鳥島、硫黄島、ウェーク島などに水上機の基地を設け綿密な哨戒活動が必須であった。軍令部内でもこの案件は当然議論の対象になったが、華々しい攻撃作戦に比べると、哨戒任務は地味である。部内でも消極的な意見しか聞かれず、その作戦図は机の片隅に埋もれて、やがて忘れ去られた。
連合艦隊司令部にしても、緒戦の真珠湾奇襲作戦の段階では、担当の参謀はもとより山本長官自ら上京して皆の説得に大車輪の活躍をみせたが、哨戒についての認識はそれほどでもなく、主任参謀である黒島大佐の口から哨戒の言葉が聞かれることはついぞなかった。
かくて、4月18日、ドウリットルのB-25がやってくる。大型機は空母から発進できない、と言う世界の常識を覆した彼らに名を成さしめてしまった。それにしても、5時間まえにわが方の哨戒艇の一隻(550海里)から連絡を受けていながら、1機も撃墜できなかったとは、何か将来の暗雲を予測させるものがある。
余談ながら、この哨戒艇は敵護衛駆逐艦の主砲で木っ端微塵にされる。
次に解せないのは3月9日発動のインド洋作戦である。
喧嘩を始めておいて何故現場(太平洋)を離れるのか?あの時点でインド洋作戦が絶対必要であればこの開戦は理論上間違っていることになる。つまり、機動部隊の数が足りないまま、開戦したことになる。また、南雲艦隊は真珠湾で空母を討ちもらしているのだから、なおさら、わが国の正面を空けられない筈である。哨戒だけでなく、索敵機を放って敵空母を探し求めるのが常道であろう。
ここに不思議なことが、もうひとつある。
南雲艦隊は前年(昭和16年)12月23日に広島湾の柱島泊地に帰還している。補給、整備、訓練、慰安は絶対不可欠だからとやかく言うつもりはない。
グアム、トラックは、まだ整備不十分だから本土帰還は致し方ない。
そんなところへ、2月1日 マーシャル諸島 2月24日 ウェーク島 3月4日 南鳥島 、たてつずけに空襲の報がはいる。当然、米空母の出現が考えられる。真珠湾以後、探し求めていた待望の敵空母がその所在をようやく明らかにしたのである。
しかし、しかしである、何故か連合艦隊司令部は沈黙を守り、南雲中将の第一航空艦隊は3月9日柱島を出航、3月28日セレベスよりインド洋へ向かった。
                 参考文献
斉藤一好 著 一海軍士官の太平洋戦争 (高文研 刊)
吉田俊雄 著 四人の連合艦隊司令長官 (文芸春秋 刊)
木俣滋郎 著 第二次大戦海戦小史 (朝日ソノラマ 刊)
大井 篤  著 海上護衛戦 (朝日ソノラマ 刊)
 

 


 トラ トラ トラ(2)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)
浬(シー・マイル)1.852km 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km
tora tora tora(no.2)パンアメリカン航空
戦前、香港、グアム、ウェーキ、ミッドウェー、ハワイの経路でアメリカの民間航空(パンアメリカン航空)が就航していた。船旅だと一ヶ月掛るところを一週間〜二週間で到着できた。いまなら九時間で行けるが、当時の航空機の水準は現在のそれと較べようもなく、天候、給油、整備などで多大な時間を要した。開戦前、アメリカ大使として赴任した野村海軍大将は北米航路の豪華客船、鎌倉丸で渡米したが、直前に特派大使として派遣された来栖特使はパンアメリカン航空に乗った。グアムで台風を避けミッドウェーでは機体の修理に時間をくったが、それでも船便よりは早くアメリカに到着した。このような事情のため、前記の島々は必要不可欠なものであった。当時のアメリカはフィリピン、グアム、ウェーキ、ミッドウェーを領有していたが、開戦と同時にその殆どを失い、残ったのはミッドウェー、ハワイのみとなった。当然、この路線は廃止され、以後、このルートをめぐる戦いは熾烈を極める。特に、グアムの周辺にはテニアン(原爆機はここから発進)、サイパン(軍民共に玉砕)などがあり、また大海戦(わが国は惨敗)も行われ、いわゆるマリアナ諸島は地獄の戦場と化す。
しかし、今は開戦当初である。先稿は南雲艦隊が中部太平洋を留守にしてインド洋へ向かったところで終わった。
インド洋での戦果を簡単に記しておく。
空母(ハーミス)、重巡洋艦2隻、商船若干撃沈、コロンボ爆撃。英国東洋艦隊(ソマビィル大将)とは接触できなかった。
4月19日(1942)帰還のためバシー海峡を北上中、ドウリットル隊を発進させた米機動部隊の追撃命令を受けるが到底間に合いそうもない、やがて取り消し命令がくる。
5月7日、フィリピンの米軍が降伏すると、残されたアメリカの最前線は豪州とミッドウェーということになる。この地を日本軍に奪われるとハワイが丸裸になる。当然、両軍の視線はこの小さな島へ注がれることになる。
連合艦隊司令部は真珠湾攻撃部隊に帰途この島の攻略を命じたのであるが、あっさりと断られている経緯がある。
開戦時、軍令部が考えていた作戦はおよそ次のようなものである。
1.米、英、蘭の勢力を東洋から撃退。
2.米艦隊を撃滅。
3.南方資源の獲得。
4.太平洋島嶼の占領と持久。
5.講和を待つ。
日露戦争当時は、造りためた艦隊が沈められると殆ど敗戦が確定した。だが、近代戦は、軍艦を航空機を造りながら戦う。また、兵器の研究、開発が驚異的なスピードで進み作戦内容を根底から覆した。レーダー、無線電話、ソナーなどが登場して戦闘そのものが一変した。
戦艦の大砲に替わり航空機が主要な位置を占めるようになったことも忘れてはならない。
当然これらのことは、技術力、生産力、ひいては”国力”にまで遡らざるを得ないのであるが、寅さんではないが、それを言ってはお終いよ、というわけで論評は差し控えることにする。
さて、当時はヨーロッパでも大戦が行われており、それも枢軸国有利な情勢が現出していたので、当然、講和の機会が生まれてくるのではないか、と言う思惑が指導層を支配したことは否めない事実であった。
まことに手前勝手な論理であるが、歴史とは往々にしてこのような不条理さを狭雑物として成立して行くものではなかろうか?
四月初旬、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、幕僚たちを東京へ派遣した。作戦の日程が決まったからである。
5月上旬、ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)
6月上旬、ミッドウェー攻略作戦(MI作戦、AL作戦)ALとはアリューシャンのことである。
具体的には、アッツ、キスカの二島である。
7月上旬、米豪連絡路遮断作戦(フィジー、サモア、ニューカレドニア、FS作戦)
10月、ハワイ攻略作戦
作戦に先立ち、山本連合艦隊司令長官は旗艦大和の艦上で訓示、所信表明を行った。
戦いがすでに決戦段階に入ったこと、過去の戦訓を踏まえ陣容を一新して、将兵心を一にして戦場に臨まねばならない。今度の敵は軍備を整え待ち構えている敵である。また、山本は銃後の生産性の向上にまで触れ、彼の職域からはみでた発言も盛り込んだ異例とも言える訓示で締め括った。
やがて、MO作戦が始まった。
担当は第四艦隊(井上茂美中将)、連合艦隊は五航戦(原忠一少将)の空母、翔鶴と瑞鶴、重巡2隻を応援部隊として参加させた。
5月3日、まず、ツラギを占領した。


 
 
*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)*トラ トラ トラ(no.3)


浬(シー・マイル)1.852km わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km


サンゴ海海戦
ポートモレスビーは、オーストラリアの喉首にあたるニューギニア(パプア)の要衝である。
この島は世界第二位の大島であり東西に山脈(オーエンスタンレー・2000m)が走り、島を二分している。しかも、山中は前人未到のジャングル地帯であり到底人力の及ぶところではないと思われていたが、やがて日本軍が彷徨いこんでいく。
開戦初頭、わが国の矛先は太平洋の島々へ向かい、東から、ウェーク、マーシャル諸島(ビキニ エニウェイトク クェゼリン)、ギルバート諸島(マキン タラワ)、ラバウルを制圧した。
3月までにニューギニアの北岸、ウエワク、マダン、ラエ、サラモアに進出、橋頭堡を築いた。
当然、米豪軍の反発を招き空母機、陸上機の空爆に曝されたが、日本軍はよく持ち堪えた。この上陸作戦を支援した第四艦隊(井上茂美中将)は、作戦中13隻の艦船を失っている。米機動部隊の奇襲を受けたのである。
MO作戦はこれに呼応するもので、一挙に海と空から決着をつけようとした。
この度の担当も第四艦隊である。だが、3月の苦汁を戦訓として、今回は空母2隻を含む機動部隊(5航戦 5戦隊)の増援を得ていた。
5月3日、ツラギ(ソロモン諸島)を占領した。ここに水上機基地を造ればサンゴ海の哨戒が可能である。
翌日、米機動部隊が現れ、この戦争で始めての空母同士の戦いが繰り広げられた。第四艦隊は小型空母他を失い、翔鶴が大破。米側はレキシントン沈没、ヨークタウン大破。先ずは、引き分けと言ったところか。しかし、多数の航空機を失い、作戦不能を知った井上中将はモレスビー作戦延期の手続をとった。


FS,MO作戦の真の目的とは一体、何だったのだろうか?何故、これほど膨大な兵力を、しかも緒戦にこの地域に集中したのか?陸軍のニューギニア作戦も含めて、一考してみたい。
米豪連絡遮断作戦が表向きの名称である。つまり、オーストラリアに対日反抗の拠点を作らせまいとした。
では、その方策は?
まず、封鎖が考えられる。次は、かの地の占領であろう。
あの広大な国土を考えれば、封鎖は至難の業である。計画にあるように、ニューギニア、サモア、フィジーの完全占領が不可欠である。そして、航空機の陸上基地の設置。航空機の輸送。それに伴う兵員の輸送。機動部隊に限りのあるわが国では、常時、南雲艦隊を貼り付けておく訳にはいかないからである。
むしろ、豪州占領の方が容易であろう。兵力の都合さえつけば豪州占領は不可能ではない。国土の半分以上は砂漠地帯で攻撃の対象にならないからである。それでも中国のことを思えば、50万以上の兵員が必要である。また、プラス要因として、豪軍の主力はヨーロッパ、アフリカ戦線にくぎずけになっていることが挙げられる。
簡単な計算をしてみよう。
中国大陸に100万、東南アジアに50万、北東アジア、日本本土に30万、太平洋諸島に20万、計200万人、約100個師団が絶対国防圏に展開しているのである。
この上、50万の兵員、それに伴う兵器、装備、弾薬、糧秣、石油、これらを運ぶ輸送船、護衛隊、挙げればきりがない話ではある。しかし、これらの準備が出来ぬ限りこの作戦は画餅に帰す。結論として、わが国の実力では到底、実行不可能であったろう。
となれば、FS,MO作戦も否定されるべき作戦ではなかったろうか。
わが国は最後が最後まで、長大な補給線に泣いた。将兵は、飢え、病み、幽鬼のようになって戦った。決して、忘れる事のない戦訓にしなければならない。
やがて、運命のミッドウェー作戦に突入して行く。

 




トラ トラ トラ(no.4)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)
浬(シー・マイル)1.852km 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130kmミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km

ミッドウェー作戦(MI ・AL作戦)
この作戦については多くの著作があり、詳細も既にかなりの正確さを以って検討し尽くされているので、ここでは幾つかの疑問点を挙げるに留めたい。日本の運命が定まったこの戦いに対していささか冷淡すぎるのではないか、と言う思いがしないでもないが、あまりにも全てにわたって辛すぎるので筆が思うように進まないのです。
1.先ず、指揮権について触れたい。
一般的には次のように理解されている。
海軍の場合 軍令部 連合艦隊司令部 艦隊司令部 戦隊司令部 各艦長
MI作戦には、参加艦艇350隻、航空機1000機、将兵10万人が投入された。わが国にとっては史上初の、乾坤一擲の一大作戦であったと言える。この膨大な数字の整合性を得るためには、指揮系統機能が最大限に発揮されねばならない。この概数には、さらに次の要因が付け加えられる。気象条件、燃料、糧食、各員の士気、配置の適否、兵器の保守、弾薬、信号、米艦隊の予想位置、索敵、陣形、そして最大のものが各部署の通信手段であった。
指揮権は常に、口頭、文書、電報、信号を以って発動される。これを逆に辿るのが報告及び具申、申告である。通信については次項にゆずるとして、果たして、各部に於いて”適格者”が指揮権を発動したのか、否か?おおいに疑問のあるところである。
軍人の資質を云々する事は非常に困難なことであるが、状況によっては慎重な理論派よりも積極好戦的な資質も必要なのではなかろうか。
わが国の場合、その作戦に否定的な意見を持つ人物が要所に配されたり、名誉回復と言って敗戦の将を再度起用するケースが多く見受けられる。国の浮沈に係わる大事に個人の名誉など論じる事自体が無意味であり、その罪は万死に値するのではなかろうか?
わが帝国海軍の伝統では、艦が沈没するとその艦長も運命を共にしなければならない。
では、司令官はどうなのか?
2.通信について。
艦:艦 無線電信(暗号) 無線電話(暗号)手旗,旗りゅう、光信号。
艦:航空機 無電 光信号 
艦内 電話 伝声管 伝令
航空機:航空機 無線電話(不良) 手話 黒板 動翼
航空機内 伝声管 黒板
電話は、まず以って使い物にならなかった。
艦対艦の意思の疎通はともかくとして、艦対航空機、航空機対航空機の意思の疎通はただ僥倖に頼るのみであった。
敵の暗号通信の解読は最後までならず、ただ、通信量の多寡と方向のみによって敵情を推察するしかなかった。これに関連して、自軍の無線封止が厳重視されたが、このことが足かせとなった多くの事実は見逃してはならない。
敵を識り己をも識る事は、古今東西、常に戦いの要諦とされてきた。
3.東郷元帥の単縦陣をもちだすまでもなく、艦隊の序列、陣形は非常に大切なものである。MI作戦の陣形をとやかく言うつもりはない。当時の海軍の英才たちが心血を注いで創り上げたものに、素人が批判の矛先をむけることは僭越至極であろう。
ただ後知恵でいえば、空母の護衛(艦船、航空機とも)が不十分であったこと、潜水艦との連携が希薄であったこと、哨戒方法、索敵方法の改善がなされていないことなど実行可能なことがなおざりにされていたことが悔やまれてならない。
4.レーダー、無線電話はもとよりのこと、対空火器までが劣っていたことが戦後明らかにされている。如何に、大艦巨砲の思想が根強くはびこっていたかが判ろうと言うものだ。特に、遅発信管の砲弾には泣かされた。まさに、巨大な散弾銃を浴びせられたようなものである。古の、海賊たちが敵艦の帆布を切り裂くために発射したぶどう弾のようなものである。機体に直接命中しなくても、周囲で破裂するだけで、致命的な損傷を与えた。
マレー沖海戦(わが航空隊が英戦艦2隻を撃沈)の戦訓は一顧だにされなくて、未曾有の海戦に無造作に臨んだのである。わが国の艦長たちはみな腕が良いので、迫り来る魚雷をことごく交した。まさに、神業にちかい。しかし、艦長が雷跡をかわすことに汲々としているようでは、もう先がみえている。
敗勢も定まった昭和19年になってから、ようやく対空火器の取り付けが進んだというから、山口提督も海底で苦笑いしたに違いない。
5.サンゴ海海戦での航空勢力の消耗が悔やまれてならない。
よく、真珠湾の勝利が喧伝されるが(今も、当時も)、果たして連合艦隊はあのとき勝ったのであろうか?
何十年も膨大な予算を掛け訓練をつんだ艦隊が、周到な計画を練り不意打ちを仕掛けたのだから、成功しないほうがおかしいのではあるまいか?当時、米国の前哨基地はグアムなどを除けば、フィリピンとハワイだけである。太平洋艦隊はハワイにいるのだから真珠湾攻撃は当然の帰結だと言える。何も新機軸を打ち出したわけではない。華々しい戦果に隠されて、わが方の損害は過少評価されているのではあるまいか?
29機のわが方の損害がよく云々されるが、これは多いのか少ないのか?
熟練操縦士の養成には時間と多額の金と石油が必要である。29人のヴェテラン・パイロットの損失には計り知れないものがある。ハワイでは甚大な損害を被ったのである(むろん、特殊潜航艇の犠牲も忘れてはならない)。この後、この問題は即座にわが国のジレンマとアキレス腱となって跳ね返ってきた。この29人の操縦士に加えサンゴ海で失った操縦士、航空機、艦船(空母、翔鶴)の回復がなされぬままミッドウェー戦に突入したのである。
6.米側にとってのハワイとミッドウェーの関係。では、わが国にとってハワイに当たる島はどこなのか?
ウェ-クが一番近いが、小環礁で後方基地としての役割は到底望めない。夜間の、飛行艇の発着も不可能であったと言う。トラックがどうにか使えたが、距離は倍以上になる(2700海里)。アメリカの1150海里に較べてその不利は覆うべくもない。
米側が陸上機(600海里)で哨戒できるのに対して、わが国は空母を近ずけ艦上機(300海里)で哨戒,索敵しなければならない。今度の敵は、山本長官の言う、待ち受けている敵なのである。
結局、そのトラックへの進出も遅れ、艦隊は後方のサイパンから出撃した。
その頃、わが国の暗号電文を解読した米側も複雑な心境であった。


参考文献
斉藤一好 著 一海軍士官の太平洋戦争 (高文研 刊)
吉田俊雄 著 四人の連合艦隊司令長官 (文芸春秋 刊)
木俣滋郎 著 第二次大戦海戦小史 (朝日ソノラマ 刊)
大井 篤  著 海上護衛戦 (朝日ソノラマ 刊)


 

トラ トラ トラ(no.5)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)
浬(シー・マイル)1.852km 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km ミッドウェ〜トラック 2700浬 5000km
トラック〜日本本土 1800浬 3300km

米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督には、頭の痛いことが二つあった。
機動部隊を統括しているハルゼーの病気とヨークタウンの修理(サンゴ海海戦で大破、レキシントンは沈没)である。暗号解読で敵はミッドウェーへやって来るということが判明しているが、あるいは再度のハワイ攻撃かも知れない。何れは対決しなければならない敵艦隊であるが、今は最悪の時期と言える。本国から急行しているサラトガが間に合わなければ、またヨークタウンの修理が手間取れば、エンタープライズとホーネットの二艦で戦わねばならない。
サンゴ海では殆ど互角の戦いをしたので、山本の2空母(翔鶴、瑞鶴)も無傷ではあるまい。だが、4〜6隻の空母は必ずやって来るだろう。
ニミッツは、先ず、ロックウッド(潜水艦隊司令官)へ連絡をとり長距離の哨戒と索敵を命じた。そして、如何なることがあろうと、敵艦と遭遇しても魚雷は射つなと付け加えることも忘れなかった。つまり、哨戒に徹せよ、ということである。
次に飛行艇哨戒部隊にも同じ命令を下した。ミッドウェーへの増援は航空機30機だけに止まった。戦後明らかになったのだが、この増援部隊の中には、ハリウッドの映画監督、ジョン・フォードがカメラマンと共に含まれていたと言う。無論、記録映画を撮影するためである。
ハルゼーの後任については、もう既に成案を得ていた。
6月4日〜6月5日(1946)
航行序列は、10戦隊の旗艦、長良が先頭である。次が、8戦隊の利根、筑摩の重巡部隊。空母は、赤城、加賀、飛竜、蒼竜が2列で進む。後衛には、3戦隊の榛名、霧島の戦艦部隊が就いた。
そして、遥か後方には、山本五十六大将座乗の超弩級戦艦”大和”が控えていた。
MI,AL作戦に動員された艦艇は350隻、航空機1000機、将兵10万人、まさに空前絶後の大作戦であった。
4日の深夜、先頭の長良は日付変更線(東径180度)に、差しかかろうとしていた。
ミッドウェーの敗因が語られるとき、決まって出てくるのが利根4号機の発進が30分ほど遅れたこと、そして雷装、爆装の転換に手間取ったことが挙げられる。
無論、そうしたことが戦勢を左右したのかも知れない。
しかし惜しむらくは、何故50機の索敵機を飛ばさなかったのか?何故、100機の直衛機で各空母を守らなかったのか?
ミッドウェー島は、”陸地”だから逃げはしないのである!”何時でも”攻撃は可能なのである!これが、雷、爆装転換の答えになる筈である。また、何故、臨機応変に爆装のまま即座に飛び立たなかったのか?何も撃沈にこだわることはないのである。
敵の攻撃機が低空をやってきたので、高空のわが直衛機は不意を突かれたということもよく言われる。これも直衛機の数が不足していたか、あるいはわが対空高角砲の劣勢によるものであろう。乱戦の中で味方撃ちもあったかも知れない。
しかし、いずれにしても索敵が勝敗を別けた。
ニミッツの飛行艇と潜水艦は、少なくともわが利根4号機よりも3時間前に日本艦隊を発見し急電を送っている。この必然性は、米側の地の利、そして物量にその答えが求められるであろう。
飛竜の健闘はあったが、山口提督(少将)とスプルアンス提督(少将、ハルゼーの後任)は明暗を訣けた。



トラ トラ トラ(no.6)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)

*浬(シー・マイル)1.852km* 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km ミッドウェ〜トラック 2700浬 5000km
トラック〜日本本土 1800浬 3300km


MI AL作戦
4隻の空母を失った連合艦隊はやむなく避退に移った。
戦死者たちの死に様はさまざまであった。
艦上、艦底、飛行機、洋上、海底、あらゆる場所で彼らは散華した。
爆弾の破片は肉と骨を切り刻んだ。手足を、首までも切断した。あまりにも悲惨だったのは、即死出来なかった者たちである。火炎が迫り、煙にまかれ、傾斜した艦上から海へ投げ出され、やがて沈んだ。弾薬庫の爆発で空中に四散した者もいた。炎で焼かれた者は、手の皮が剥がれタラップの手すりを握ることができなかった。艦底の機関兵たちの最後は筆舌に尽くせないものであったろう。艦長は、舵輪に自分の体を縛りつけ海中に没した。
空では、操縦士たちが絶望的な戦いを繰り広げていた。機銃弾で腹を抉られた飛行士は、風防を血で赤く染めながら母艦を探し求めながら飛んでいた。尾翼を失ったある機は最後の力を振り絞り、敵艦に体当たりした。ようやく帰投した機は燃料切れで、炎上する母艦の手前で海中へ突っ込んだ。味方の弾幕の真ん中へ突っ込んだ機もいた。
もはや、そこは地獄の戦場であった。

アリューシャン攻略作戦はこのミッドウェー作戦と平行して行われた。
具体的には、アッツ、キスカ両島の占領が目的である。
6月7日〜8日(1942)
海軍の担当は第5艦隊、陸軍は第5方面軍(北方軍)であった。
第2機動部隊(角田覚治中将)の空母2隻(竜襄、隼鷹、航空機100機)も参加していた。
1,000名宛、計2,000の陸兵が無血で上陸して作戦は無事終了した。この後、増兵が行われ1年後に悲劇的な結末を迎える。

この時点で、かつて山県が利益線と呼んだわが国の絶対国防圏は、北はアリューシャンから南はビルマのラングーンまで数万浬に及んだ。まさに、空前の大日本帝国の現出であった。ミッドウェーの敗退は致命的であったにも係わらず、大本営はこの2島の占領を以って大東亜戦争の第一段階の終了を告げた。
しかし、帰還の途上にある大和の艦上では山本大将が大日本帝国の必敗を確信していた。
一般的に、戦局の転換点をガダルカナル以降においているが、それは明らかに誤りである。
ミッドウェーで失った戦力(空母、航空機、搭乗員)は10年をかけて養ったものであり、一夕一朝に復興できるものではない。
山本は、長大すぎる国防圏、本土海域の機雷原の設置、各シーレーンの防備、哨戒活動の重要性、航空機、空母、護衛艦の増産、搭乗員の育成などを決して忘れていたわけではない。
また、同盟国ドイツの勝利に賭けていたわけでもない。
彼が望んだことは緒戦の優位性と講和、ただそれだけであった。
自国が開戦を決意すれば、軍人は本分を全うするのみである。彼はそれに従い、そして敗れた。




主要海軍軍人採点表

トラ トラ トラ(no.7)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)

*浬(シー・マイル)1.852km* 
わが国からハワイまでの距離 3400浬 6300km ハワイ〜アメリカ本土 2000浬 4000km
ハワイ〜ミッドウェー 1150浬 2130km
ミッドウェー〜ウェーク 1300浬 2400km ミッドウェ〜トラック 2700浬 5000km
トラック〜日本本土 1800浬 3300km

主要海軍軍人採点表 〇×式
普通、こう言う代物は最終章にくるのが常道であるが、私的点検の意味合いを重視して、まだ戦いは始まったばかりであるがあえて掲載することにした。( )内の数字は海兵卒の年次。通常、歴史上の人物評価は甚だ恣意的であり、時代によりその評価も変化しがちである。また、固有の歴史観でろ過されて正反対の評価を下される場合もある。いずれにしても、人々はか細い記録を漁り不明瞭な伝聞に頼るほか術はないのであるから、そこに正確性あるいは妥当性を求めても無理な話ではある。そして、人々は永い人生の中で蓄積された風評に基ずき判断を下すのであるから、その出典を問われても答えようはないのである。
無名戦士、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、各施設艦、航空機、沿岸警備隊員、孤島の守備隊員、名も知れぬ小艦艇の、あるいは潜水艦、輸送船の乗組員に対してはここに絶大なる親愛の情を贈り、まずもって殊勲甲の二重◎を捧げたい。最後に、銃後の国民すべてにも同じく二重◎を贈りたいと思います。

海兵 評価 氏名 海兵 評価  氏名 海兵 評価  氏名
32  嶋田繁太郎 37 〇   草鹿任一  36 高橋伊望
31  及川古志郎 39 〇   原忠一  36 細萱戌四郎
28  永野修身 40  宇垣 纏 37 大河内伝七
35 〇   野村直邦 40 〇   山口多聞 39 角田覚治
29 〇   米内光政 40 〇   岡  新 39 高木武雄
32 〇   *山本五十六* 41  草鹿竜之助 41 〇  大森仙太郎
34  *古賀峯一* 41 〇   高柳儀八 40 〇  多田武雄
33  *豊田副武* 41  田中頼三  39 〇  安部弘毅
32 〇   吉田善吾  41 〇   木村昌福 41 〇  保科善四郎
36 〇   沢本頼雄 39 〇   伊藤整一 45 富岡定俊
37 〇   井上茂美 40  福留 繁 44 黒島亀人
35  高須四郎 42  石川信吾 45 〇  有賀幸作
35  近藤信竹  42 〇   加来止男 46 〇  高田利種
36  南雲忠一 42 〇   有馬正文  44 〇  早川幹夫 
37  *小沢治三郎* 42 〇   白石万隆 46 〇  山本親雄 
37  鮫島具重  42 〇   大西新蔵 48 神 重徳
38  栗田健男 43  高木惣吉 51

小薗安名

38 〇   三川軍一  43 〇   中沢 佑 51 〇  実松 譲
39 〇   志摩清英  40  大西滝治郎 52 〇  淵田美津男
39 〇   西村祥治 42  小柳富治 52 源田 実

*  * 印  連合艦隊司令長官

 


 


トラ トラ トラ(no.8)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)

*浬(シー・マイル)1.852km
横須賀〜サイパン 1280浬 横須賀〜トラック 1840浬
トラック〜ラバウル 800浬 トラック〜クェゼリン 1100浬
クェゼリン〜ハワイ 2000浬 ラバウル〜ガダルカナル 560浬
ラバウル ソロモン群島の北西に位置するニューブリテン島の要港。緒戦に占領、陸海軍の    航空隊が進出していた。
ガダルカナル ソロモン群島中、最大の島。
ツラギ フロリダ諸島の東側に位置し、ガダルカナルと相対している。ガブツ、タナコンボゴ、フロリダと共に緒戦(1942.5.3)、日本軍が上陸、水上機基地を造るが…。

gadarukanaru&turagi

ガダルカナルの激闘(ソロモン諸島の戦い)

1.第一次ソロモン海戦(1942.8.8~9)
ミッドウェーの敗退で意気消沈している山本提督のもとに、追い討ちを掛けるように一通の悲報が届いた。昭和16(1942).8.7~8にかけてツラギ、ガダルカナルが米軍の急襲を受け玉砕したと言うのである。守備隊(鈴木正明中佐)、横浜航空隊(宮崎重敏大佐)1000名、設営隊(ガ島)1500名戦死。襲ったのは、米第一海兵師団(A・バンデグリフト少将)10000名である。
山本の幕僚の中には、ガダルカナルの位置さえ知らぬ者がいたと言うから”玉砕”も必然性を持っていたといえる。いくら中部太平洋から南へ偏っているとはいえ、先のMO作戦では水上機基地(ツラギ)として必須の位置を占めていたのである。また、遅まきながら、ガダルカナルでは7月の初め頃から飛行場の造成にとりかかり、ようやく完成したばかりであった。
まったくうかつな話で、軍令部(連合艦隊も)の予測では、米軍の反攻は早くても昭和18年の初め頃というのが大勢を占めていたらしい。敵を知らぬこと甚だしいと言わねばならない。あの強大な工業力を以ってすれば、パール・ハーバーから8ヶ月は充分な時間であったろう。壊滅的(?)な打撃を受けた太平洋艦隊(ニミッツ提督)で臨んだミッドウェー海戦さえ制した米国である。あまりにも、楽観的な見通しであった。
最前線のラバウルから、1000キロ、救援はならなかった。
”大和”プラス機動部隊をはりつけておいても、可笑しくは無い島々である。(山本さんも、内心、そう思ったのでは?)もし、敵が出てくれば、ミッドウェーの敵討ちが出来たのに。そのように考えた参謀がいたとしても、この油のないときに、と一喝されるのがおちであったろう。            
となりのニューギニアでは陸軍が死闘を続ける中、新たな米軍の反攻が火蓋をきったのである。そして、うちつずく島嶼の玉砕の最初のものでもあった。




 

トラ トラ トラ(no.9)*太平洋戦争諸作戦私的点検(海軍軍令部編)

*浬(シー・マイル)1.852km
横須賀〜サイパン 1280浬 横須賀〜トラック 1840浬
トラック〜ラバウル 800浬 トラック〜クェゼリン 1100浬
クェゼリン〜ハワイ 2000浬 
ラバウル〜ガダルカナル 560浬
ラバウル
 ソロモン群島の北西に位置するニューブリテン島の要港。緒戦に占領、陸海軍の航空隊が進出していた。
ガダルカナル ソロモン群島中、最大の島。
ツラギ フロリダ諸島の東側に位置し、ガダルカナルと相対している。ガブツ、タナコンボゴ、フロリダと共に緒戦(1942.5.3)、日本軍が上陸、水上機基地を造るが…。

1945-c ガダルカナルの死闘

第一次ソロモン海戦


昭和17年8月7日早朝(1942)、ツラギ,ガブツ,タナンボゴ、フロリダそしてガダルカナル島へ米第一海兵師団(12000人)が襲いかかった。
ウオッチタワー作戦と呼ばれるこの反攻作戦は、海、陸、空のバランスのとれた攻撃で弱小の守備隊しかいないわが軍は瞬時の内に壊滅した。
横浜航空隊(宮崎重敏大佐)、第84警備隊(鈴木正明中佐)、第14設営隊他1600名が玉砕した。恐らく、以後何十回となく繰り返された玉砕の最初のものであろう。
出来上がったばかりの飛行場を奪われた軍令部、大本営は激怒した。だが、ガダルカナルの位置さえ知らぬ参謀がいた位だから効果的な反撃策を取りようもなく、また、時間、距離的な要素が作戦を困難なものとした。
とりあえず、山本大将にお鉢が回ってきたが、彼とてもミッドウェーの後遺症から立ち直れないうちの敵の来襲にいささか、たじろいでいた。燃料の問題も彼を憂鬱にさせていた。米潜水艦の攻撃により南方からの油槽船が激減しているのだ。
もとより、大和以下の連合艦隊の出撃が望ましいが、もう一点、機動部隊特にパイロットの補充、訓練が未だ成されていないことが山本のジレンマであった。
とりあえず、ラバウルを泊地とする第8艦隊(三川軍一中将)に出撃命令が下され彼の重巡部隊がガダルカナル水域へ向かった。8月8日の23時ごろサボ島沖で、敵連合軍の重巡部隊(クラッチレー少将)と遭遇ただちに夜戦に入る。激闘数時間、朝方までに4隻の敵重巡を沈めた三川中将は敵空母の接近を恐れ無傷の部隊を率い戦場を離脱(このことは後に多くの批判を受ける)。しかし、好事魔多し、帰途、敵潜水艦の攻撃を受け重巡加古を失う。
海戦は圧勝と言いたいところであるが、肝心のガダルカナルにいる敵輸送船(数10隻)を打ちもらしたことが、後に重大な重荷となって跳ね返ってくる。
なお、連合国側ではこの海戦を、サボ島沖海戦と呼称する。

日本軍の本格的な反撃は8月16日に始動した。
第2、第3艦隊を先陣として連合艦隊が動き始めた。南雲中将の第3艦隊(空母、翔鶴、瑞鶴、竜驤を含む)と後先に、山本大将の坐乗する戦艦大和もその巨大な錨を上げた。
山本にとって最後の見納めとなる内地の山並みが、やがて彼の視界から消えた。



2009年7月4日 10:45:35
 
 


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